アナログ回路設計の"職人"は必要ない

アナログ回路って何?

集積回路(以下,IC)には多かれ少なかれ必ずアナログ回路が含まれます.アナログ回路とは,電圧や電流という物理量が動作パラメータになる回路,例えば電圧増幅回路やリセット信号発生回路などで,あらゆるICの回路は,電圧のある/なしで動作が決まるデジタル回路かこれかのいずれかに分類できます.

テープアウトを2年遅らした,とあるアナログ回路"職人"の例

我々のチームには交流電圧を直接入力とする,それまでに前例がない電源回路が必要でした.その電源回路設計にアナログ回路の専門家としてメンバーが配置されました.その方は20年以上のアナログ回路の設計経験と業務実績があり,多大な利益をもたらした特許により表彰を受けた,スペシャリストとして高く評価されていました.
その方は設計要求項目を仔細に調べ,ドキュメントにまとめて,回路図を作成して仔細なシミュレーションを行い,綿密にレイアウト設計を進めて,IC製造に必須であるマスクデータを作り上げました.それは,まさにプロフェッショナルの呼び名にふさわしい高品質の仕事です.
ですが,それには2年かかりました.我々のプロジェクトは完成すべき時期を逃し,結局のところ成果は世に出ることはなくチームは解散となりました.

チームメンバーと"職人"

一般にIC設計の雑誌では"職人"は長年の経験を蓄積したエキスパートとして賞賛の意味で使われます."職人"を国語辞典で引くと,"身につけた技術によって物を作り出したりする職業の人"とあります.
これを見て私の中の"職人"が嫌いな理由が分かりました."職人"の定義には,チームのメンバーであるという概念がないからなのです.チームのメンバーは,チームの目的(それがどれほど価値あるかも含めて)を共有して,チームとしての仕事を全員で完遂するものなのです.
また私の"職人"嫌いは勘違いであったことも分かりました.なぜなら私が嫌ったのは肩書きはメンバーであるのに実際にはメンバーではない矛盾した存在であり,"職人"ではなかったのだと知ったからです.

この1例から何が学べるか

賢者は歴史に学び,愚者は経験に学ぶといいます.おそらく,過去の経験からすら何も学ばないものは,もはや人とは呼ばれない猿なのでしょう.
デジタル回路およびソフトウェア設計では当然とされる考え方と手法が,アナログ回路設計にはないと私は思いました.そこで,その違いを指摘してみようと思います.

科学する心

アナログ回路設計者は一人前になるまで10年かかるといいます.これをアナログ回路設計者が自分で言うとき,それは勘違いだと私は思います.
経験には2種類あります.こうすれば,こうなる(それがよい結果であれ悪い結果であれ)という1対1対応のピンポイント知識と,原因-結果を木構造で表現(Root cause analysisでよく見ますね)したエリアカバー知識です.後者は前者を発端として,分析,仮説,実験,考察のプロセスを経て初めて得られるものです.
エリアカバー知識は,未知の領域に足を踏み入れるときにも有効です.また,膨大なピンポイント知識をコンパクトに伝えることができます.これは知識と経験の見える化に他なりません.
先ほどのアナログ回路設計者の仕事のやり方は,"回路を設計する"という非常に限られた部分的な仕事では,科学的で優れた思考方法に基づいていました.ですが,チームで仕事をするという点には,その同じ科学的な思考が及ばない,ここが重要なポイントだと思います.
アナログ回路設計はチームの目標の重要な一部ですが,一部でしかありません.部分の最適化は全体の最適化とはならないのです.その技術者が仕事のフローについて科学する心があったとすれば,スケジュールを含めて技術情報と進捗をメンバーで共有して,未完成でも現在の設計データを公開して,チームの全体回路に早期に組み込んでいくプロセスを取ったのではないでしょうか.

1人前になるのに10年かかる本当の理由

1人前になるまで10年かかる理由を(膨大な量がある)ピンポイント知識の吸収にかかる時間だと考える方がいます.これは明らかな勘違いです.回路技術は日進月歩,半導体プロセスや設計システムの要請から,最適な解決手法も日々変化していきます.それはアナログ回路とて同じことです.ピンポイント知識では,これから設計する新しい手法をどう手をつけるか,には途方にくれてしまいます.
1人前に10年かかる理由は,科学者になるためにかかる時間です.半導体プロセス物理や回路シミュレーションをはじめとする計算機科学などの高い専門知識が必要です.手段を探索して,ふるいにかけて,仮説を立てて実験をして,その結果に基づき考察をして,その経過と得られた知識をチームメンバーに伝える能力が求められます.その知識と能力があって初めて,チームに必要なそして最適なアナログ回路という"成果"が得られます.これは,科学者が日々行う活動そのものであり,科学者を育てるには確かに10年程度の年月が必要です.

定期的な開発の収束と継続したイテレーション(繰り返し)

先ほどの設計者の例に致命的に欠けていたのが,開発の収束と,継続したイテレーションです.
実例を挙げるとまず,1週間毎に仕事の進捗度と問題がないかをヒアリングしていました.そのたびに技術的に細かい話がたくさん出てくるのですが,前回のヒアリングからどれだけ進捗しているか,そして今の問題がいつ収束するのかという,時間軸の話が欠けていました.結果として設計はいつまでたっても収束しません(当たり前です,収束するプロセスがないのですから).
そして当人が"完成した"と宣言する設計データがある日突然ぼんっと提出されます.ICには多くの回路があり,その回路は他の回路と連動して動いています.実際に組み合わせて見ると,確かにそのアナログ回路だけを見ると部分最適化されているが,IC全体からみると具合が悪いものでした.これは,ある程度完成した設計データを都度組み合わせて,具合が悪ければ変更をする,イテレーション(繰り返し)があれば防げた現象でした.

ガントチャートは未来を約束する魔法の本ではない

もう1つ,プロジェクト管理ツールの1つにガントチャートがあります.これは,何をすれば次に何ができるかというフロー情報と,それぞれの項目がどの程度の時間がかかるかを視覚的に見やすく表現するものです.
ガントチャートがあると数値で進捗度が表されて,一見プロジェクトが"管理"されていると見えます.ですが失敗したプロジェクトの屍骸が無残にころがります.
理由は2つあります.1つは,猿に道具を与えても猿でしかないこと.2つは,ガントチャートは"未来日記"ではないこと,です.
漫画ではないのですから,未来に起きるべき事象を書いただけでは何も得られません.それを現実に成し遂げるのはチームのメンバーです.チームメンバーから浮いたガントチャートは,文字通り絵に描いた餅です.

トヨタのアナログ回路技術者に会ってみたい

私の経験と書籍からの知識をまとめて,"職人"とチームメンバーの違い,そしてアナログ回路設計の仕事フローが今時ではない点を指摘しました.
組織全体での仕事フローとして私が納得する会社はトヨタです.トヨタは自前の半導体工場を運営していますから,その中には半導体プロセス技術者およびアナログとデジタル回路設計技術者がいると思います.その方々の仕事フロー,および技術者育成について,インタビューができる機会がないか,探していきたいと思います.